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「匂いのバリア」を纏う都市の叙事詩――香水広告が語るパーソナルスペースの哲学

2025年9月3日

タイトル画像:「匂いのバリア」を纏う都市の叙事詩――インド発、香水広告が語るパーソナルスペースの哲学


デリーの駅の喧騒、ムンバイの市場の活気――。インドの都市は、生命の息吹と匂いの洪水に満ちている。スパイスの香ばしさ、排気ガスの鈍い刺激、人々の体温が混じり合う独特の香りのアンサンブル。五感を容赦なく揺さぶるこの環境で、人々が本当に求めているものは何だろうか?

ある海外の屋外広告(OOH)を見て、そんな問いが、ふと脳裏をよぎる。それは、インドの香水ブランド「Badz For Her」のキャンペーン、「Bubbles」の広告看板である。

街の真ん中で、一人の女性が、まるで巨大なシャボン玉――透明な「バブル」――に包まれて佇んでいる。その姿は、周囲の混沌とは隔絶され、静謐な宇宙を形成しているかのようだ。


香りの可視化、心理的な「盾」の創造

イメージ画像:カラフルな香水の瓶にシャボン玉と盾が重なる様子


この広告の最大の妙は、「香り」という非物質的なものを、「バブル」という誰もが理解できる物理的なバリアとして可視化した点にある。本来、香りは風に乗って広がり、時に人を魅了し、時に不快感を与える。だが、「Badz For Her」は、その香りを「見えない盾」として再定義したのだ。それは、まるで化学反応が起こることで生成される、個人のパーソナルスペースを守る結界を暗喩したものだ。

この香水を纏えば、インドの強い匂いの渦中にあっても、揺るぎない自信と内なる平穏を保てる――。

「Unstoppable Fragrance(止められない香り)」という力強いキャッチコピーは、このバブルの強度、つまり香りの持続性と、それがもたらす心の安定を完璧に補強している。それは、単に良い匂いを身につけるという行為を超え、自己を守り、自己を確立するための儀式だ。そのことが看板デザインで強調されている。

■参考サイト:https://www.adsoftheworld.com/campaigns/bubbles-88340628-18fc-4fd5-8683-23a0965aea8d


混沌と静寂のコントラスト、そして自己認識の場

イメージ画像:インドの街並みで大きなシャボン玉を纏った女性が買い物を楽しむ様子


人々の喧騒の中、バブルの中にいる女性は、まるで舞台の上の役者のように、自身の存在を際立たせている。しかし、彼女の表情は決して傲慢ではなく、むしろ穏やかで、洗練されている。この日常と非日常の劇的なコントラストを表現したデザインは、見る者の記憶に強く刻み込まれる。

バブルは、私たちを外部の刺激から守る象徴として表現されている。現代社会において、個人が自身のアイデンティティを確立し、維持することは、時に困難を伴う。この香水が提供するのは、香りという媒体を通じて、そのような自己認識のための静寂な場を提供するとつたえているように感じる。


印象的なシリーズ看板

イメージ画像:黒い服を着たクールな女性、緑の背景に白い服を着た爽やかな女性、ピンクの背景に薄いピンクの服を着た可愛らしいイメージの女性


「Badz For Her」のキャンペーンは、QUEEN(ブラックボトル)、GORGEOUS(ミントグリーン)、LOVE(ピンク)と、三つの異なる香りを展開し、それぞれ異なる色とスタイルで女性像を提示した、シリーズの看板広告になっている。

黒のドレスを纏った「QUEEN」が駅のホームで気品を放つ一方で、白のドレスの「GORGEOUS」は魚市場で爽やかさを際立たせる。ベージュの上品なドレスをまとった「LOVE」は青果市場で優しさを表現する。それぞれが異なるパーソナリティを演じているのだ。

これは、野立て看板という瞬時に情報を伝える媒体において、色彩と構図がいかに重要であるかを雄弁に物語っている。消費者は、自分の「なりたい姿」や「理想の自己」を、直感的に色やイメージから選択する。三つの異なるバブルは、製品を選ぶ行為ではなく、自分自身のアイデンティティを定義する行為を想起させるデザインになっている。


看板が語る、現代人の心の風景

イメージ画像:コーヒーを片手に看板が掲げられた街を見ながら歩く女性


優れた野立て看板広告とは、単に情報を伝えるのではなく、見る者の心に深く問いかけ、記憶に刻まれる「物語」を紡ぐ力を持つ。

「Badz For Her」のキャンペーンは、抽象的な「香りの力」を、具体的で説得力のあるビジュアルで表現し、多様な自己のあり方を肯定した。それは、私たち一人ひとりが、この混迷の時代の中で、いかにして自分自身の「バブル」を築き、内なる平穏と自信を保っていくかという、普遍的なテーマを問いかけているようにも感じるほど、奥行きのある野立て看板事例だと思った。

やっぱり看板広告は面白い!