コラム
Column

街角の野立て看板が示す啓発広告の力
2025年9月16日

見慣れた街並みに、ある日突然、強烈なメッセージが立ち現れることがある。それはまるで、日常の膜を破り、私たちの意識の奥底に直接語りかけるかのようだ。ここに、一枚の屋外広告―野立て看板の写真がある。一見すると華やかなファッション広告のようでありながら、その奥には、命と向き合う普遍的な問いが隠されていた。
「完璧な遺伝子」が語りかける真実

その看板は、2025年8月にイスラエルで行われた乳がん啓発団体「One in Nine」によるキャンペーンの看板だ。
中央には、イスラエルの著名な女優・モデルであるヤエル・バル・ゾハールさんが大きく写し出されている。彼女の真剣な眼差しは、通行人の視線を強く引きつける。そして、そのポートレートの下には、鮮烈なピンク色の文字でこう記されている。「YAEL BAR ZOHAR HAS GREAT GENES AND STILL GETS CHECKED」――日本語にすれば、「ヤエル・バル・ゾハールは素晴らしい遺伝子を持っている。それでも検査を受けます」。
このコピーは、多くの人の心の奥底に潜む「乳がん検診だって? 自分は大丈夫だろう」という安易な思い込みを、鋭い刃で切り裂くかのような力を持っている。美しさや健康、恵まれた遺伝子といった、一見すればがんとは無縁に見える人物が、「それでも」と検診の重要性を訴える。
これは、乳がんが誰の身にも起こりうる普遍的なリスクであるという、紛れもない真実を突きつけているのだ。人間は、とかく自分に都合の良い物語を紡ぎたがる。しかし、この看板は、その「物語」の背後に潜む現実を、否応なく見つめさせるのだ。
■参考サイト:https://www.adsoftheworld.com/campaigns/even-great-genes-can-get-cancer
色彩と記号が紡ぐメッセージ

この広告のデザインは、言葉と同じくらい雄弁にメッセージを伝えている。キャッチコピーに使われている鮮やかなピンクは、乳がん啓発活動のシンボルカラーであるピンクリボンを比喩し、希望と女性らしさを象徴する。モデルが着用するデニムの青は、カジュアルさの中にも力強さや信頼感を漂わせ、メッセージに説得力を持たせている。背景の白は、清潔感と誠実な印象を与えつつ、メッセージとモデルを際立たせる舞台装置になっている。
特筆すべきは、団体名「One in Nine」の下に配されたシンボルマークである。8人の女性のアイコンと、その隣に並ぶ1つのクエスチョンマーク。
これは「9人に1人の女性が一生のうちに乳がんに罹患する」という統計を視覚的に表現し、「次になるのはあなたかもしれない」という静かな、しかし強烈な問いかけを投げかける。遠くからでも一瞬で理解できるシンプルさと、そこから湧き上がる深遠な意味。これは、デザインが単なる装飾ではなく、「社会を変革するツール」になりうることを雄弁に示している。
「9人に1人」という現実を静かに問いかけるデザイン

「One in Nine」という団体名は、その統計そのものが持つ衝撃をそのまま表現している。私たちは往々にして、遠い国の出来事や、統計上の数字を、自分とは無関係なものとして受け流しがちだ。しかし、この看板は、その抽象的な数字を、私たちの日常と隣り合わせの具体的な脅威へと変換させる。検索エンジンで「One in Nine」と調べるよう促す「search: One in Nine」というメッセージは、行動喚起を自然に促すものになっている。
乳がんは、決して個人の問題では終わらない。家族や友人、そして社会全体に影響を及ぼす。だからこそ、早期発見のための検診は、個人の健康を守る行為であると同時に、社会全体のウェルビーイングに貢献する行為なのだ。この屋外広告は、まるで都市の景観に埋め込まれた一つのスイッチのように、見る者の心に火を灯し、行動へと駆り立てる力を秘めている。
見上げる空のその先に

私は、この一枚の看板に、公共空間におけるコミュニケーションの無限の可能性を見た。それは、権威や説教めいた言葉ではなく、共感を呼び、思考を促し、そして最終的には行動へと繋がる、人間心理に響くメッセージなのだ。私たちは皆、日々の喧騒の中で、見過ごしがちな大切なことに囲まれて生きている。しかし、時として、街角に立つ一本の野立て看板が、私たちの日常に亀裂を入れ、その向こうに広がる真実を垣間見せてくれる存在になっていく。
ヤエル・バル・ゾハールさんの表情が私たちに問いかけるのは、「あなたは、あなたの身体の声に耳を傾けていますか?」という、シンプルで根源的な問いかけだ。この看板が発する「静かなる警鐘」は、一度見ただけで私たちの心の中に響き続ける。