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看板で紡ぐ言葉を超えて届くコカ・コーラの物語 

2025年5月20日

タイトル画像 看板で紡ぐ言葉を超えて届くコカ・コーラの物語 


看板が“話す”ことはあるのか?
と聞かれたら、私はこう答える。
「うん、時々、確かに話しかけてくる」と。


それは大音量で叫ぶわけではない。静かに、けれど確実に。ときに道ばた、ときに街中のビルの壁面、もしくは都会の駐車場脇のコンクリート塀に。通り過ぎる人の心にスッと入り込むように、言葉を超えて何かを届けてくる。


たとえば、今回紹介するコカ・コーラの「We All Understand Coca-Cola」キャンペーンも、そんな“語りかけてくる看板”のひとつだ。


フランス語とシンド語、スペイン語とディベヒ語、ドイツ語とウルドゥー語──遠く離れた文化や国を背負った言葉たちが、赤い背景に左右から並んで交わる。中央には細くくびれた影。そう、それは間違いなく、誰もが知るあの形──コカ・コーラのコンターボトルのシルエットである。


けれどこの看板の魅力は、ただグラフィック的に“うまい”とか“映える”とか、そういう単純な話ではない。


この看板は、広告というより「現代の碑文(エピグラフ)」のような趣を持っている。異なる言語が交差し、視線の焦点を中央へと吸い込む構造は、見る者に“翻訳ではなく、共鳴”を強いる。つまり「理解」ではなく「感じる」看板なのだ。


■参考サイト:
https://www.adsoftheworld.com/campaigns/we-all-understand



目に見える口コミ、読めなくても伝わる広告

イメージ画像 コーラを飲む人


このキャンペーンが優れている点のひとつは、「口コミ的要素」がデザインに内包されていることだ。物理的には一方通行な広告物である看板が、なぜか“話題”として二次拡散していく。これにはいくつかの理由がある。


まずは、ビジュアル自体が“謎かけ”になっている。


「ん?これは何語だ?」「なんで2言語?」「真ん中のボトルは意図的?偶然?」──そうした小さな問いが人の頭をかすめる。ここに一瞬の“引っかかり”が生まれることで、人はこの看板について誰かに話したくなる。つまり、これが口コミの火種になる。


しかも、それぞれの看板に描かれているストーリーは、実在する“分かち合い”の瞬間だ。マルディブから来た旅人と、老婦人が玄関先でコカ・コーラを交わす話。あるいは水泳の大会で偶然知り合った少年が、言葉を超えて友情を結ぶ話。そしてオンラインゲームを通じて、ウルドゥー語とドイツ語を操る若者たちがひとつのチームを作った話。


これらの物語が、地名や言語を超えて「普遍性」を持っていることがミソだ。見る者は、自分と異なる文化圏の話を読みながらも、なぜかその情景を“知っている気”になる。それはおそらく、「コカ・コーラを飲む」という体験が、誰しも一度は通過した“感覚の共通言語”だからだろう。



看板の構造がそのまま「つながりの仕組み」になっている

イメージ画像 デザイン資料と螺旋構造


実はこのキャンペーン看板、都市の喧騒から離れた場所、あるいは異国人の通りがちな空港周辺の国道沿いなど、わざと“翻訳がいらない”環境に置かれているのだ。


「読めないけど目が留まる」。これは広告表現として極めて強い。
視認性、誘目性、非言語性、印象保持性……そういった広告評価の項目を全部ひっくるめて「無意識に働きかける」という点で、この看板は突出している。


そして見逃せないのが、中央のくびれの設計。
ただのレイアウトではない。左右に書かれたストーリーの文章量・行間・整列方向までもが意図的に設計され、中央に自然な“ボトルの余白”を生み出している。


これはコピーライターやアートディレクターの手腕というより、もはや建築家の仕事に近い。言葉の柱が、1本のボトルを囲む構造体として機能しているのだ。



野立て看板に未来はあるのか?

看板で紡ぐ言葉を超えて届くコカ・コーラの物語 


「今さら看板?デジタル全盛の時代に?」──そう思う人もいるかもしれない。だが、こうした“見る人に能動性を要求する”タイプのアナログ広告は、むしろこれからの時代にこそ必要とされる。


スマホのタイムラインに現れる広告は、基本的に“ユーザーの好みに最適化”されている。だが、看板にはその“選別”がない。誰が見ても、そこにあって、同じ内容が目に飛び込んでくる。


そのぶん、偶然性や発見性がある。そしてそれが、記憶に残る。「あの道沿いの赤い看板」「何語か読めなかったけど印象に残ったやつ」──それがふとした会話で出てくるとき、それはもう広告の役割を超えて、“文化的な話題”へと進化している。


しかも、このキャンペーンのように“物語”を備えている看板は、SNSで画像が拡散された後も、その場に設置され続けることで「二度目の接点」「三度目の発見」を誘発する。口コミがじわじわと効いていく。その地に住む人々のなかに、深く根を下ろしていく。これこそが、看板の「地場力」だ。



結局、人は“知っている”より“感じている”で動く

イメージ画像 多国籍の人々が手を合わせている


最後に、少し個人的な感想を添えたい。
このキャンペーンを見たとき、私は「言葉を超える瞬間って、確かにあるんだな」と感じた。異なる言語が、ひとつのボトルに吸い寄せられるようにして交わるあの光景。それはまるで、どこかの国境で無言のままコカ・コーラを手渡し合うような、そんな瞬間を想像させる。


そう、広告は“伝える”ものではなく、“感じさせる”ものに進化している。
だからこそ、野立て看板のように「能動的に目に入るもの」には、これからの時代にも期待が持てる。そしてそこに、ストーリーとデザインの力が加われば、看板は単なる販促手段ではなく、“共感の地上戦”として立ち上がってくるのだ。


「We All Understand (私たちはみんな知っている)」。
それは言語の話じゃない。記憶の話であり、感覚の話だ。そして、その感覚は今日も、あの赤い看板から、静かに私たちに話しかけてくる。